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記録映画 カラー 35o・16o 37分 1963年 製作:岩波映画製作所


企画:日本国有鉄道 製作:小口禎三 脚本・演出:土本典昭 撮影:根岸栄 録音:安田哲男 

照明:松橋仁之 山本茂樹 演出助手:泉田昌慶 岩佐寿弥 撮影助手:西山東男 奥村義博 


録音助手:岡本光司 照明助手:重田清三 製作係:深井一二


進行:山崎耕一郎 音楽:三木稔 解説:大田正孝 機関士:中島鷹雄 機関助士:小沼鹿三






第18回芸術祭文部大臣賞/教育映画祭一般教養映画最高賞/日本紹介映画コンクール銀賞/キネマ旬報短編ベストテン第1位/日本映画ブルーリボン賞教育文化映画賞/毎日新聞日本映画コンクール記録映画最高賞/ベルリン映画青年文化賞



解説

1962年、国鉄ではがオリンピック準備に伴う資材運搬や新幹線配備等によって労働強化を強いられていた。同年5月2日には、三河島で大事故が起きた。国鉄当局は、事故の印象を一掃するため、鉄道の安全性をPRする映画を企した。

  土本は、労働者の実像なくして国鉄は語れないと、事故のあった常磐線を取材、2日間釜たきを体験してシナリオを書き上げた。


 朝8時に東京尾久機関区で点呼をとった後、上野から水戸まで機関車を運転してくる。水戸到着後、5分以内に車軸、ピストン、釜を点検し、交替乗務員へのひき経ぎをしなければならない。夕方、再び上野まで列車を引いて帰る時間まで、水戸で休息をとることが仕事である。

 顔についたススや汗を石けんで洗い流す。労働時間量は労働医学研究室の生体反応テストで得たデータによって決められている。


 休憩室へ行くと、仲間が談話している。かろうじて避け得た踏切事故で、その時のトラックの積荷が火薬だったことや、自殺者に飛び込まれた話など…、明日はわが身、他人事ではない。想えば、機関士になることを夢みて学習した、中央鉄道学園での日々がなつかしい。


 仮眠をとった後、勤務につくために乗務員控室へ行く。びっしり書き込まれた列車タイヤ表に、さらに赤線が入れられる。3分遅れで水戸に到着した「みちのく」を、これから上野まで運ぶ。許された速度の範囲で、その遅れを回復しなければならない。すばやく交替業務を終え、水戸を出発。陽はすでに傾いている。田園の中を、白煙を上げて疾走する機関車。


 機関士が助士に次々と指示を出す。釜に石炭を放り込む機関助士。駅通過、時刻表チェック、遅れを1分縮める。日が暮れ、前照灯に照らしだされる線路。水圧計を見る機関助士、耳がススで真黒になっている。


 

 駅通過、遅れを1分半縮める。釜・水圧・蒸気とひっきりなしに指示をだす機関士、点呼し確認する機関助士。

取手駅通過、やっと定刻。常碧線は、多いところで日に460本の列車が走る。信号チェック、まわりが、街のネオンでにぎやかになってくる。水戸から上野まで、信号150、踏切300、ひとつたりとも見誤ることは許されない。


 

 上野駅定時に到着。機関士は報告を書く。機関助士はくつろいで野球のモーション。

ホームに降り立つ乗客。やがて、ホームをバックで出ていく機関車。最後の点呼。この日も、「12列車、上野到着。特に異常ありません」


 

 国鉄は、でき上がりを観てこの映画の公開を梼躇したが、映画は好評で、数々の賞を受けたこともあり、公開に踏み切った



ある機関助士映画評                   

人間的共感で作る記録映画               荻昌弘     1963年週刊朝日4月号掲載

なお今週は、(公開は未定であるが)近作の日本記録映画一本にふれておきたい。岩波映画が製作した「ある機関助士」。


私はこの40分の色彩鉄道映画に、近頃にないすがすがしい感銘をうけた。


常磐線の急行「みちのく」に乗務する紅顔の機関助士。これが、機関車C62とともに、この短編の主人公である。


 朝の9時50分、彼は先輩の機関士と上野を出発し、水戸で愛機を次の乗員に手渡して、夜の19時9分、上り「みちのく」で上野へ帰る。


はげしい労働と緊張の一日、彼には、先輩達のなまなましい事故体験談や、きびしかった訓練の思い出がかぶさってくる。


疾走する蒸気機関車の猛然たるダイナミズム。ういういしい神経を張りつめた青年労働者の責任感。


これが、熱っぱい色彩画面の中に渾然と一つに結びついていて、ここにはほとんどドラマチックとさえいいたい人間的高揚感がある。


私が一番感心したのは、記録映画が 単に事実の定着やスペクタクル化に終わらず、このような人間的共感で一つの世界を描けるようになってきた、その新鮮さである。


ところどころ、新人監督土本典昭は舌たらずな観念的な表現を残してはいる。 が、上り下りの「みちのく」疾走シーンは、まったく身ぶるいがでるほど圧倒的である。


とくに上り列車のバク進を夜景で撮りまくったクライマックスは、色彩映画として画期的なすばらしさではないかと思われる


さらに、青年が発煙筒をかかげながら走る訓練場面の充実感。スポンサー国鉄の協力、技術陣の優秀さも大きかったにちがいないが、日本の記録映画界はまた一人注目すべき新人作家を生んだ







2007年8月15日  2007年山形国際ドキュメンタリー映画祭のパンフレット


    作者の言葉               土本典昭           


今回、回顧上映される二作品についてのエピソードを求められた。


 『ある機関助士』(1963年、カラーmm,37分)は私のフィルモグラフィーの"第一作"とされている。


 この国鉄の安全PR映画は1962年に起きた常磐線三河島駅での大事故、その"自己批判"として企画された。当時、事故直後から事故の責任は「機関士、機関助士の不注意」と目されていた。


この企画では新しい事故防止装置の普及が題目とされていた。が、過密な運行ダイヤこそ事故の真因と見ていた私は、あえて事故の路線を選んで、その安全運行の責任の担い手、機関士・機関助士らの実際の労働描写に力点を置いた。


当時17社の入札で、このような曰くつきの路線の乗務員を主役にした話が、入札に入るとは予想もしなかった。 私は演出者として、加害者側になった国鉄労組に足を運び、彼等の労働を分析的に描く話に理解と協力を得た。このシナリオが作品化し得たのは、労使双方が「滅びゆく機関車時代」に愛着を持っていたからであろう。


企業が莫大な経費を使って、その乗務員の労働映画をつくった。それ自体、異例の作品となっていると言われた。PR映画しか途がないといわれた時代の作品である。